通年

十牛図

「十牛図」についてまとめておこうと思います。
「十牛図」とは、自分の心を探しに行く旅のことです。「私の心」というものを形ある見えるものとするため、牛にたとえます。そしてこの牛が自分の心から離れ、逃げて行ってしまいます。これを心牛(しんぎゅう)と言い、心牛を探しに行くのです。
第一図「尋牛(じんぎゅう)
牛を探しに旅に出ます。探せども探せども見つからない。途方に暮れて立ち止まり、天を仰ぎ見る図になっています。
第二図「見跡(けんせき)
牛を探すために、まず牛の好きな香草を取り、その近くに牛がいると思い探し歩く。香草を手に持ち、手がかりとなる牛の足跡を見つけた図になっています。
第三図「見牛(けんぎゅう)
足跡を辿っていくと、牛を発見します。おそるおそる牛に近づいて見る図になっています。
牛とは私の心に変わった心牛のことを表わしています。
自分の心を俯瞰して見る。すると、本然の私の心というのは、おだやかに自然に抱かれ草をはむ牛となっている。なんて美しいものだろうと気づくということを表わしています。
第四図「得牛(とくぎゅう)
牛を見つけたので、何とか捕まえようとします。牛は頑固で角を突き立て、荒れ狂い逃げまどう。必死で牛を縄で縛りあげ、鞭でいましめて捕まえようとする図になっています。
心牛が私自身に戻るよう、本然の心として身につくためには必死で修行するしかないと伝えています。
第五図「牧牛(ぼくぎゅう)
牛を捕まえた私ではありますが、簡単に捕まえ終わったと思ってはいけない。いつ牛は逃げてしまうかわからない。だからこそ、時間をかけて牛の事を想い、牛の居る場所は自分の所だと思わせることが大切です。牛の横に寄り添い、飼いならす図となっています。
第六図「騎牛帰家(きぎゅうきか)
牛との闘いは終わり、縄も鞭も必要ない。牛は自分のものとなり、その牛の背中にのり笛を吹きながら家に帰ろうとしている図になっています。
牛の背中の私は、牛のお尻の方に顔を向けて乗っています。歩く速さも方向も牛に任せて乗ってて、自由気ままに笛を吹いています。無心であり、心穏やかな幸せです。
第七図「忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)
心牛と一体になった私は、ふるさとの家に戻ってきます。心と牛が一体になった私。修行を終え、悟りを開いたということです。
家に戻り、牛は消え家の前でうずくまり膝を抱え、のんびるとする図になっています。
第八図「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
心牛と一体になり、悟りを開いた私ではありますが、その大いなる悟りに安座して慢心してはいけないと考える。「色即是空」万物は変化して滅びる。そこで、一度開いた悟りではあるが、そのすべてを捨て去って無になろうと試みます。
円相だけが描かれ、何もない図になっています。
第九図「返本還源(へんぽんかんげん)
「色即是空」で万物は滅びて無となります。しかし、「空即是色」無もまた空をおもい、無から万物を生じようとします。
つまり、無になったことではありますが、無からまた何か生まれようとするものです。人の力ではわからないので、全てを天に任せて動じずにあるがままを受け入れようという境地を表わしています。
万物の図、山々や草木、水の絵の図になっています。
第十図「入鄽垂手(にゅうてんすいしゅ)
なぜ、私はうまれてきたのか?自問自答する日々を過ごすうちに、自分には役割があることに気づき、ふるさとの家を出て里に出る。その姿は襤褸(らんる)をまとい、お酒の入った瓢箪をぶらさげています。私自身が布袋となったのです。布袋になり俗世間に入り、悟りの道を教えはじめます。
布袋の姿となった私が、里におりて人と出会う場面の図になっています。

日々の生活の中で、十牛図のことを思い出すことが幾度とあります。
そのたびに十牛図の本を読み返したり、自分なりに考えたりします。心牛=茶道と考えてみる。茶道は私にとってかけがえのないものです。

検索

-通年

Copyright© 茶の湯辞典 , 2022 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.