通年 茶室

護国寺

神齢山悉地院内護国寺は天和元年(1681)二月に創建され、徳川五代将軍綱吉公の母桂昌院が護持していた念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩」を秘仏本尊として、天和二年に堂宇が建立された。

将軍の座についた我が子のため、武運長久・息災延命をひたすら観世音菩薩に祈願する母桂昌院の姿、信仰の深さを目の当たりにした綱吉公により、将軍家所有の高田薬園(雑司ヶ谷)の地に将軍家による寺院が母のために建立されました。

綱吉が将軍である間は、将軍家祈祷寺院の中でも、護持院(江戸知足院)に次ぐ有力な一寺院となりました。綱吉が没し六代家宣公、七代家継公の時代は将軍家の祈祷寺院として変わらぬ地位にありましたが、江戸城内での祈祷は減少していきました。七代吉宗公の時には顕著に現れます。享保二年(1717)正月、護持院が火災により大伽藍が残らず焼失しました。吉宗公は護持院の再建を許さず、護国寺内一堂宇(本坊)を護持院とすることを命じました。幕府祈祷の任は変わりなく勤めたものの、将軍家の庇護は薄れていきました。

明治期に入り、神仏分離令の発布により混乱期を迎える。明治元年、護持院は廃寺となり、堂宇は本来護国寺所有のものと認められました。しかし明治十六年(1883)、大きな火災に見舞われます。焼失を免れた観音堂(現本堂)を中心に復興の道を進む。明治二十四年(1891)総理大臣三条実美の墓所が護国寺に営まれたことが、祈祷寺院からの転機となり、多くの檀家を持つこととなりました。

そして、明治四十二年(1909)明治の大実業家、高橋義雄(茶人、高橋箒庵)が寺院復興のため墓地を求め檀家総代となり、護国寺維持財団を作ります。茶人としての高橋箒庵は、護国寺を茶道本山として整えていくことに心血を注ぎました。「参詣した時に清浄な気持ちを与えて、茶の湯気分にする」大徳寺を見習って護国寺を作り上げていきます。

大正十一年(1922)、境内に名物石燈籠(本堂の前方、鐘楼と銅仏の間の柵の中)をはじめ、阿倍仲麿堂を寄進。さらに、芝天徳寺より松平不昧公・夫人の墓石を護国寺に移転(三条実美の隣)。茶道本山としての面目を築き、茶室「箒庵」を寄進。

大正十五年(1926)、関東大震災の被害を免れた護国寺は馬越恭平(茶人、馬越化成。日本のビール王)をはじめ、茶道具商と共に、四畳中板の小間圓成庵」と「不昧軒」を寄進。不昧庵の腰掛待合には、不昧好み瓢箪の透かし模様があります。さらに美術商、山澄力蔵より三畳台目の小間宗澄庵」が寄進された。

昭和に入り、昭和三年(1928)財界人原六郎(銀行家)より、現在の「月光殿」が寄進される。その後、馬越恭平遺構の茶室「化生庵」・「月窓軒」、学習院大学で茶道を教えた堀越宗圓を代表とする裏千家「蕾会」より四畳半台目艸雷庵」の寄進を受ける。これらはすべて高橋箒庵の計らいによるものでありました。

昭和十二年(1937)高橋箒庵は突然の体調悪化により逝去しました。享年七十七才。箒庵は三十年にも渡り、護国寺興隆のために尽力されました。

(参考文献)                「護国寺茶の湯物語」戸田勝久著

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